山中比叡平「歴史散歩」【補遺】 田中伸
葛川明王院 @

堅田より途中越えで花折峠トンネルを抜けると安曇川沿いを 北へ、葛川明王院は安曇川支流、明王谷に架かる赤い橋の向こうにある。紅葉時期も訪れたい。
葛川明王院 A

明王院は平安時代初期に相応和尚(そうおうかしょうと読む ヤヤコシイ)が比叡山無動寺の奥の院として建てた。新緑と石垣が美しい政所表門。
葛川明王院 B

相応は天台修験の道場を山深い地に開き、回峰行(のちの 千日回峰行)の創始者である。山門から覗いて左に護摩堂、右に弁天堂。敷地内全部が重要文化財指定
葛川明王院 C

本堂は江戸時代に建て直したものだが、平安時代に使っていた資材も使われているらしい。駐車場は安曇川対岸にある 葛川支所に40台のスペース有り。
1 JRビワイチ 190円

JRで琵琶湖一周、3時間半を一区間運賃190円で行って来ました。 半信半疑でしたから、大津京駅の駅員さんに確認 (@最終駅まで改札口は出られない)
2 JRビワイチ 190円

大津京より坂本行き切符を買った場合は、山科行き電車に 乗って山科で東海道線に乗り換え長浜まで、長浜で乗り換え (A同じ線を行ったり来たりしてはダメ)
3 JRビワイチ 190円

近江塩津へ、マタマタ近江塩津で湖西線に乗り換え堅田まで 堅田駅(新快速が止まる)で普通電車に乗り換え唐崎が終着駅 (Bきっぷの使用は当日限り。これらを守れば合法です。違反 すると3020円、払って下さい) 車窓は鵜川からの眺望
4 JRビワイチ 190円

退屈するかなと思ったが適度な乗り換えと、車窓風景の良さで 充分に満足した鉄道旅でした。 車窓は余呉湖と水田
GW 滋賀おすすめスポットB

人気のマキノ メタセコイア並木です。田植えのこの時期が 水鏡で最高。並木の終点より約300m程手前が ビュースポットです。
GW 滋賀おすすめスポットA

高島市畑にある日本の棚田100選の畑の棚田 GWは田植え にあたり道が狭いので300mほど上がった左手に神社の駐車場に止め、歩きでゆっくりと楽しんで下さい。
GW 滋賀おすすめスポット

草津市志那にある志那神社、三大神社、惣社神社が志那の三郷 の藤と呼ばれいる。その一つ志那神社です。 本殿は1298年再建で重要文化財。
山中町と同じ揮毫の石碑

北白川仕伏の乗願院にある白幽子の「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の写真を撮りに行った。「南無阿弥陀仏」の揮毫は山中と同じであった。 側面、裏面に何か刻まれてないか、覗き込んだが何も無かった。

乗願院の石碑は台座、近くに法界霊と縦に、山中町の石碑は法界霊と、横向きに刻まれている。 法界霊を調べて見ると、「全宇宙の一切の生き物の霊」萬霊をこの塔に宿らせ供養するのを、目的に建てたものと思われる。
南無阿弥陀佛石碑

京都より山中町入り口にある宝篋印塔を過ぎて30m行くと、 左手奥に南無阿弥陀佛と刻まれた高さ2m超えの石碑が建っている。

石碑の左側に「享保十二丁未年二月七日」と刻まれている。 享保12年 1727年、約300年前に建てられた。

山中の方々に尋ねたが、誰が何のために建てたかは分からなかったが、 京都 仕伏町 乗願院の境内にある南無阿弥陀佛と刻まれた 石碑は江戸時代初期の隠士 書家で北白川瓜生山の岩窟に 住んでいた白幽子の揮毫「南無阿弥陀佛」と同じものと 思われる。

志賀越に白幽子の揮毫による同じような石碑が2基あるとは この時代、白幽子は人気の書家だったのでしょうね。
最澄と山の井

京都方面から仕事の帰り道、山中町入り口にある南無阿弥陀佛と書かれた、供養塔の事が知りたくて、出会うご高齢者に尋ねるいつもの取材スタイルである。

前方から気の良さそうな男性が歩いて来られた。 供養塔の事を尋ねたが、わからないとの事でしたが、男性は「家には昔、馬が首をつっこんで水を飲んでいた泉がある」、鳩居堂が江戸後期に作った牛馬専用の水飲み場と思ったが、違うらしい。 紀貫之が歌に詠んだ「山の井」であった。

西教寺縁記には最澄が手で境内を掘った所に泉が湧いた「瑠璃壺水」と絵入りで紹介されていた。最澄の云われは多分伝承だと思うが・・・・

「今でも枯れずに湧いているのですか」
「どんどん湧いてるで。簡易水道が通る前はこの水、飲んでたんや」
「トタンめくって見るか」
「はい、ぜひ見せてください」

このトタンは飲料水にしていた当時、ホコリや落ち葉が入らないために 敷いたものだ。高ぶる気持ちで波板を取る、泉までの深さは1mは無い 階段がある。

直径1mを大小の石で組まれている。 「冬は暖かく 夏は冷い美味しい水やで」と笑顔で話されていた。

平安時代初期から私達の知らない天災や昭和10年の土石流大災害と 山中越バイパス工事らに耐えて1100年間も枯れずに湧き続けているのは、やはり最澄の天台密教の成せる業でしょうか。
桐畑古墳群

志賀の大仏(おぼとけ)を抜けて百穴古墳群を左に見ながら滋賀里まで 志賀越えをくだってくる。穴太積の道の間から琵琶湖と三上山が見える志賀越えではここが一番の景色とだと思っている。

もう少し行くと、左に千体地蔵堂がある。ここを左に曲がって、右手に 琵琶湖を見ながら200m行くと、志賀山寺に着く。

Googleマップではここが崇福寺となっているが間違っている。 ここは志賀山寺です。

ここの境内に桐畑古墳がある。大きな石が積まれた羨道開口部がみえる この石組みの通路は高さ1.6m 幅1.4m 長さ6m少しかがんで歩く 中は思ったより明るい玄室の天井が落ちて木が見えている。

長さ5m 幅3.1m  高さ3.6m以上大きな玄室である。上を見上げると 四方の石組みが天井頂点部に向かってすぼまっているのが分かり ドーム型になっていたのは想像できた。崩壊も少なく、一見の価値は 十分にあると思います。

奥には不動明王が祀ってあり、本日の目的のお地蔵様も51体祀られ 欠けてはいたが、堀が深く今迄見たことがない、立派な阿弥陀如来 でした。

境内には桜もあり、琵琶湖と満開の桜の絶景が見れそうです。
お地蔵様と延暦寺焼き討ち

山中町に111体のお地蔵様がある。そのうち70体は磯谷久次の 菩提寺、極楽寺門前にコンクリートで固めた70体が山になっている。

目、鼻、口を確認するためにお顔を指で撫でて調べる。風化の激しい 花崗岩はポロポロと指先から落ちて真砂土に帰る。「ごめんなさい」 素早く手を引いた。「これが輪廻転生」かなと思った。

簡易型と呼んでいるお地蔵様は、信長の延暦寺焼き討ちで殺された 三千人ともいわれている僧兵や女、子供を弔うためのお地蔵様で 山中町では17体の簡易型お地蔵様がお祀りされている。

琵琶湖博物館が八講堂千体地蔵800体を調べている。42.6% 340体が簡易型であった。

坂本から滋賀里までの個体数と簡易型数を調べることが出来たら 延暦寺焼き討ちでの犠牲者数や亡くなられた地が見えてくるかも 知れません。
お地蔵様

比叡平市民センターの一筋、北にある三角公園に入ると正面に 地蔵堂がある。

手を合わせ心でお祈りしてから観音開き戸を 引き開けると、新しい頭巾とよだれかけの間から小さなお顔が 何とも可愛い。

両脇にはカラフルな花があり果物、お水が お供えされている。 お守りされている住民の方には頭が下がります。

今日はこのお地蔵様が室町時代に作られたものか、O氏と 調べにやって来ました。

お地蔵様のお顔の上には屋根が作られ、両脇に柱造り「箱造り」 「厨子造り」と呼ばれる 典型的な室町様式で室町時代の物で ほぼ間違いないと思います。

鎌倉時代から室町時代にかけて、比叡山(神体山)山麓に近江 各地から富裕層の人々が身内の死の弔い、子供の成長や病気治癒 家内安全祈願のために野仏を据えたものと思われます。

  1999年に琵琶湖博物館の調査結果は坂本の西教寺、南側を 流れる足洗川流域で土石流によって流れ着いた野仏2772体 が川沿いに祀られている。

この数はほんの一部で、私が歩いた 坂本から滋賀里間が特に多く境内に山のように積まれた寺院や 地蔵堂の周りには数十体単位で祀られている。

誰も数えたことは無いと思うが一万体は有ると思う。

比叡平造成時に出土して私達の街に 人々の安寧を願って降りて来られた お地蔵様
山中比叡平「歴史散歩」 【補遺】A
山中比叡平「歴史散歩」 【補遺】B



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