山中比叡平「歴史散歩」<17> 田中伸
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七本柳 山王祭 渡御
志津若宮神社より北東へ300m湖中に立つ山王鳥居がある浜が七本柳です。

湖国三大祭の一つ山王祭は3月1日より4月 15日にかけて行われる、4月14日には日吉大社西本宮殿か ら7基の神輿が下阪本七本柳浜まで担がれ、ここで神輿を 神輿船に乗せて、湖上で粟津の御供が行われ、北へ2km位、 渡御して若宮神社の裏の港に着き、夕闇迫る頃、松明の光を もとに西本宮に帰ります。


志津若宮神社の狛犬
志津若宮神社の狛犬、文殊菩薩も見てみたい。


志津若宮神社
盛安寺より東に600m、下阪本1丁目24にある志津若宮神社、ここにある狛犬は室町時代の様式を伝え、高さ37cm いずれの狛犬の台座に文禄三年(1594 5月日) 伏見新三郎と彫られています。

また神仏混交の時代に本地仏 であったと思われる室町時代の文殊菩薩坐像、従者像が残って いると大津市史に書かれていたので、これは見たいと思い 境内を探して見るが、どこにも見当たりませんでした。

ネットで狛犬、仏像を検索したがヒットしない、こうなると 見たい思いが募るだけ


宝光寺
盛安寺観音堂の隣に宝光寺があります。

重要文化財、阿弥陀如来立像は、もともと京都市左京区浄土寺、真如堂にありましたが、応仁の乱で真如堂が焼け、1470年に仏像はこの寺に移りました。鎌倉時代に作られたと言われています


盛安寺 十一面観世音菩薩立像
盛安寺の道を挟んだ南に観音堂(仏像庫)があります。拝観は5、6、10月の毎週土曜日とゴールデンウィーク、正月  三ヶ日に拝観することが出来る。

十一面観世音菩薩立像は 崇福寺(大津宮 天智天皇建立)にお祀りしてあった観音様 で平安時代に作られたと言われ、重要文化財です。

白洲正子は錫杖を持つ姿を、絶賛しています。また井上靖は 小説、星と祭りのなかで「観音さまの微笑を、ふくんだ顔 を仰いでいると、自然にこちらも微笑せずにはいられない、 そんな感じである」と書いています。

私もまだ拝観していな いので地蔵菩薩のように錫杖を持ち、ふくよかな顔で微笑む 姿を是非、見てみたいと思っています。

観音堂の拝観は無料で駐車場は7台、客殿(重要文化財)と枯山水庭園は拝観予約で300円です。比叡平から車で15分


盛安寺
穴太野添古墳群より東へ歩いて10分、坂本1丁目17−1にある天台真盛宗 盛安寺です。

創建は不明ですが、朝倉の 家臣で杉若盛安が再興して、自分の名前をつけました。

伏見城の廃材で作られた客殿は重要文化財で17世紀頃に 建てられたと言われています。長谷川派の障壁画、明智光秀 の陣太鼓などがあります。


穴太野添古墳群
穴太駅より北西に10分、穴太3丁目15−1にある穴太野添古墳群です。

近江神宮から日吉大社までの山手には 1000基以上の古墳がある密集地帯、その中では最大数180基以上が確認された穴太野添古墳群です。

すべての古墳がドーム型天井をもつ横穴式石室で埋葬品 (ミニチア炊飯セット)などから6世紀中期から7世紀 初期の渡来人の古墳と考えられています。


壺笠山城
壺笠山城は穴太駅より西方の山中にあり白鳥越を守るために 築かれた。

1570年、浅井、朝倉軍は延暦寺を味方にして この城に立て籠もり、織田信長と激しい攻防が続いたが信長 は落とせずに、和議となりました。この壺笠山の戦いが翌年 信長による延暦寺の焼き討ちへと展開することになった。

信長が当地区を支配下に治めたことは、軍事的に重要であっ た。山門勢力を完全に押え込むとともに、近代城郭の始まり である安土城築城には、優れた石積みの技術を持つ穴太衆 を動員させたことが、穴太衆が一躍脚光をあびることになり ました。


乙御前馬場の雷石
仲哀天皇 産湯の水より東に200m、道左側に 長さ6m、幅3mの大きな石があります。

石の上面 に、臍のような痣があるた言われています、それは 雷が落ちた時に忘れていった臍で、地元では雷石と 呼ばれている。道路改修のさいに大石は半分以上が 埋まってしまいました。


仲哀天皇 産湯の水
京阪穴太駅より西に、湖の美が丘団地へ行く迄の道 を斜め右に行くと高穴穂神社の御旅所があります。 そこの井泉は、かって清水が湧き出ていました。

地元では、仲哀天皇の産湯の水と呼び、天皇は穴太 で生まれ、産湯を使ったと言い伝えられています。

昔はこの霊水を求めて、遠方から多くの人々がやっ て来ましたが、今では絶えてしまいました。





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